昭和44年07月17日  夜の御理解



  親教会のお月次祭で私はおかげを頂きましたが、お説教が星野の池上先生のお説教でした、本当にあの有り難いところを通っておられるなぁと、聞かせて頂いて思うと同時に、神様はそれなりの修行それなりのおかげを、生き生きと現して下さるなと言った様な事を感じたんですけれども、何と言うてもその池上先生が、ご自身そのお取次ぎをされて、信者が一人一人助かって行く姿、しかもそれが家族を上げての信心になっていく、ここ三年あまりのご自身の信心を話されたんですけれども2.
 本当にあの有り難い尊い事だなぁとこう思うんですね、信心が一段一段進んで行かなければならないということを、そんなテーマでしたが、そのうお取り次ぎをされてから、その感じておられる自分の信心というものを話して行かれる、それで結局はそのう取次者自身が改まって行かなければ助からんということを、身を持って実感して行かれておられることですね。私は本当にあのう実際に教導に立ち触っておられる。
 人のその生き生きとした姿と、それはもう信心が何時までも幼稚園じゃいけん、小学校にも行かんならん、中学校にも入らにゃならん、とこれはもう言うだけはもう分かりきった事なんですけれども、自分自身がそうだなぁと、自分でも言うておられましたが、自分にもまぁだ自分では持ちきらない程の、信者がいろんな難儀な問題を持っておると、けどもそれが持たせて頂けれるようになったということが、有り難いという意味の事をね話しておられます。
 二つのおかげ話しをまぁ例を取ってから言うておられましたが、とにかく私はあのう実際に取次ぎの働きというものが、金光大神依存だけではなくて、取次ぎ者自身がこのう改まって行かなければならないということ、一人なんかはですね半年あまりもお参りをされて、そうですねあの胆石が出来る、それが半年目に小便の中に出て来たという体験をね。もうそれこそおかげを受けた者も感激なら、お取次ぎをされた先生も大変感激して、あのおかげを受けられたとと言う様な。
 ところがそういうおかげを受けた後には必ず、今度はそれとは違った難しい問題が起きておって、今度その問題に取り組む姿勢というものが、本人にも出来て来る取次がして頂く私にも、また一段とそこんところが進まして貰えると言った様なお話しです。生き生きとしたそのおかげ話しをの例を取ってですね、とにかくあの精進しなければということ。それは誰彼ではない、取次ぎ者自身が改まって行かなければというお話しでしたがね、もう皆まぁ感銘深く頂いた訳ですけれども。
 分かっておるだけでは何にもならんです、その分かっておられる事が実際の体験を通して、実際のお取次ぎを通してですね、自分がその生き生きと体験しておられるということが、尊い事だなと思うて私聞かして頂いたんですけれどもね、そりゃお互いの上にも同じ様な事が言えます、どうぞ一つおかげを頂いて、やはり自分の信心の精進のあとという、また改まらして頂く。
 そこから神様の働きがこう始まるこう起って来る始まって来る、それがですねやはり本当に自分の身に、何と言うですかまぁ言うならば、自分の生活にかかってるわけですね、もうこの信者に助かってもらわなければ、自分方ん教会な立ち行かんっちいうぐらいな、そのう白真剣なものがそのうようなものを感じたんですよね、本当にあの有り難いと思いました。
     どうぞ。